2017年05月15日

三四半世紀の想い出(49)

IBM1620.jpg

造船設計部にもロッカー室のようなスペースに参考文献など数は限られるが図書があった。管理課標準係の所管であったが、直接設計に参照する鋼船規則やロイド・ABのルールブックは担当する係の担当者が手許に置いていた。
その図書のなかに電子計算機のプログラム入門のような冊子を見つけた。

工学部の各科共通の数学講座でカシオがそれらしいものを開発しているらしいということを聞いたくらいで、コンピュータ概論や情報活用演習など講義を受けたことはなかった。

コンピュータが実用化されてしばらくは機械語でコーディングしていたが、やがてアセンブリ言語が使われるようになった。しかしデータをレジスタに設定し蕃地を指定してメモリに書き込むような手順をステップ毎に記述していたのでは実用的なプログラムを組むことは出来ない。
それで1956年頃からコンピュータにやらせたいことを四則演算や簡単な指示で記述すればコンピュータの実行出来る機械語に変換されるコンパイラとかインタープリターと呼ばれる処理系が作られた。「FORTRAN」である。
やがてサブルーチンや関数の扱える「FORTRANU」になったが、使用できる文字はアルファベット大文字のみ、変数名は5桁以内などいま思うと不充分ではあったが上述の冊子はそのFORTRANの入門書であった。

入社2年目の1964(昭和39)年2月、広島研究所に第二計装研究課電子計算係が新設されて同年6月にコンピュータIBM1620がやってきた。長崎にレンタルされていたのであるが長崎地区のセンターマシンにIBM7040が導入されることになり契約の残存期間、広島に移設されたのである。それと共に長崎研究所から転勤して来て計装研究課電子計算係が出来た。金田彰夫課長、成富 義係長であった。
コンピュータを活用するためにオープンプログラマ制がとられ頻繁にプログラミング講座が開かれた。
IBM1620が来る前も東京本社のIBM7044、三菱原子力のIBM7090を利用することが出来た。しかし、これは非常に日数が掛かった。当時、長崎や広島の造船所から書類を本社に送ると翌日には届かなかった。それで長崎発東京行きの寝台列車に乗った社員に託すのである。コーディングシートに書いて託送するとパンチャーのところで待たされて、やがて機械計算室に行く。一緒に同封されていた依頼書に従って機械的に処理される。コーディングミスがあってもその通りパンチされ入力されコンパイルエラーなどのプリントアウトが返送されてくる。
書類箱で眠っている時間を含め4日目か5日目に手許に戻ってくる。
入社早々で時間があったから出来たのであったと思っている。

IBM1620はコアメモリ6万桁(十進:ワード換算で6KW?)端末はテレタイプのみ、補助メモリなしであった。処理能力が低いため中間結果を出力して次の処理に掛けるとなると紙テープ出力(PTP)しかなかった。これをパンチアウトしているときはやかましくて傍にいられない。それに時間が掛かるためちょっとした計算でも深夜作業になった。出始めの頃のパーソナルコンピュータより桁違いに遅かった。

しかしお陰でコンピュータとつきあって来られたのだと思っている。IBM1620のレンタル期間終了になって1969(昭和44)年に導入されたIBM1130は一年程度で能力の限界に達した。その頃から経理など業務に機械計算が適用されるようになり、それまで「研究用」であったコンピュータが「事業所のセンターマシン」になった。広島造船所の機械計算課にCDC6400が導入された。この大型機をコントロールするOSの機能を説明されても理解できず、そんなことが出来るのかと呆れていた。

しかし、観音地区南端の掘建小屋まで行ってでミニコンピュータMELCOM70を使ったり、DECのLSI11を組み込んだシステムを開発したりして幾度かコンピュータの仕組みや機能をお復習いしているうちにシステム技術が判るようになったと思っている。








posted by bremen at 21:15| Comment(0) | 想い出
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