2017年05月16日

三四半世紀の想い出(50)

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私が就職した1963(昭和38)年に家族は皆実町二丁目の眞光工業社屋に転居し、基町の市営住宅には一人で住むことになった。

引き揚げて以来、両親の苦労は絶えなかったが、この頃になって少し落ち着いてきた。
高天原に墓地を得て、1960(昭和35)年12月9日に67歳で亡くなった祖母原田ユクの墓碑を建てたのも1963年であった。

学生の頃クラシックのレコードが聴きたかったのでトリオのステレオセットを買った。
最初に買ったレコードはハイフェッツの演奏するメンデルスゾーン、チャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲のLPであった。

造船設計部に同年入社した高卒で大竹から通勤していたHが居た。
基町で一人住まいであったので住まわせて一緒に通勤することにした。

基町は戦後間もない頃から不法建築が多く火災になると広く延焼し、道路もなく消火栓などないため数十軒規模の大火になった。
その火事が近くで起きたのである。雪の降る夜であった。焼け出された家から箪笥の引き出しのようなものが次々と上がり框に持ち込まれた。雪は降っているし外はごった返しているからである。

Hを住まわせていたので彼が怪我をしたり彼の物を損なったりしてはいけないと裏窓から出入りしていたとき、勝手口の窓ガラスが熱で砕けるのが見えた。
一人住まいだから持ち出す物も多くはなかった。交番に走って警察の電話で皆実町の両親に知らせることが出来た。

その火事で30〜50世帯くらい焼け出されたが、幸い勝手口の庇が焦げたくらいで済んだ。それにしても翌日勤労課が見に来たらしく「あれでは見舞いも出せない」と言っていた。市や町内会からはうどんなど非常用の食料品などが配られた。

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1964(昭和39)年は両親の結婚25周年であったので「宮島保険会館」に招待して一泊させて貰った。

三菱造船健康保険組合には保養所があった。雲仙の「雲仙荘」が一番大きかった。湯田温泉には「湯田荘」というのがあったらしいが利用したことはない。大山には中ノ原に「大山荘」があった。中ノ原リフトと上ノ原リフトの中継点に近くスキーシーズンにも利用したが、夏の盛りに相客もなくカジカの鳴き声を聞きながら母と昼寝をしたこともある。

こういう施設は管理者によってサービスが天と地ほど違う場合がある。
「宮島保険会館」は厳島の対岸にあり、ヨット(スナイプ級?)と焼き玉エンジンの漁船もあった。職場の懇親によく使った。
素人に船釣りをさせると「ここは魚がいない。場所を変えよう。」などと言う。焼き玉エンジンはシリンダの上の焼き玉を加熱しないと起動できない。船頭は面倒な顔もせずに再起動して違うポイントに移動してくれる。
ひとしきり釣ったら上陸して、雑魚を調理場にまかせて芝の庭でビールを飲みながら待っていると煮たり焼いたりして持ってきて呉れる。
見晴らしの良い広間で麻雀をすることもあった。

その面倒見の良い管理者がやめるときに退職金代わりに漁船を持って行かせたとも聞いた。
管理者が変わってからの話は想像にお任せしよう。

当時はほかに楽しみがなかったからでもなかろうが職場では家族同伴の行事が何回か行われていた。






posted by bremen at 18:29| Comment(0) | 想い出
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