2017年05月20日

三四半世紀の想い出(52)

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1964(昭和39)年の暮れ、家族で本家に行った。そのあと本家のある筑肥線浜崎から伊万里経由の鉄道で諫早に行き、雲仙にのぼった。
雲仙には三菱造船健康保険組合の雲仙荘があった。

大晦日に家族で泊まったのである。保養所宿泊は2泊と限られていたが大晦日と正月一日泊まり、あまりにも居心地が良いのでもう一泊泊めて貰えないかと相談したところ、休館するので朝食も用意できないが泊まるだけならと泊めてくれた。

雲仙荘は諫早からバスで愛野、小浜を通って雲仙の温泉街の入り口にあり有明ホテルの手前であった。
温泉街の一番奥は修学旅行で泊まった東洋館であった。
映画「君の名は」でロケをやったときの佐田啓二の写真パネルなどが掲げられていた。
その傍に仁田峠のロープウェイに行くバスターミナルがあった。
雲仙荘からの散歩にはちょうど良い距離である。途中に硫黄の吹き出すいわゆる「地獄」があって蒸気で蒸したゆで卵などを売っていたり、三脚をもって記念撮影する写真屋などもいた。
バスターミナルの傍にラーメン屋か何かあって家族でそこまで往復したこともある。
その頃越路吹雪のシャンソンが流行っており、サントワマミーなどが流れていた。
翌年、妹も私も結婚したので良い思い出になった旅行であった。

同期に入社した事務屋や機械科、電気科卒などが担当者に互して仕事をしているのを見ると、ついて行けるのかと思ったこともあったが、電子計算機のプログラムを組むようになって見通しがついたような時期であった。
縦強度計算のほか部分的な構造についての解析などもやった。係長のW氏も計算業務の機械化を推進しようと思っていたらしく理解してくれた。しかし、以前から経験と実績に基づいて紙の上で設計していた人のなかには呼び出して「以前はあんなことはしなくて済んでいた。もうコンピュータなんて扱うな。」という人も居て、S部長付などにそう言われたこともある。
広研の電子計算係のメンバーは仲間としてつきあってくれた。
計装研究課長も電子計算係長も可愛がってくれた。

キープランは描いていたが、上部構造だとかコンプロ(Construction Plofile)などで結局、船体中央横断面図(Midshipsection)や外板展開図(Shell Expansion)などは描かせて貰えなかった。

船殻計画係での業務は契約した商船の船体設計、引き合い船の対応のほかに試験研究があった。
広島研究所の江波に1961(昭和36)年8月に構造強度研究課が出来、同年11月に構造実験棟が完成した。研究所員は長崎からの転勤者などで同年末には14名になっていた。
研究所で生産工事(番船工事)の実験や計算を行うこともあったが、研究所の主たる業務は試験研究を行うことでありその成果は研究報告書にまとめられる。
研究所の人件費は主として試験研究工事オーダーに計上される。
その頃は貨物船が少なくなり、油槽船やバルクキャリア(撒積貨物船)、鉱石専用船、コンテナ専用船あるいはLPGタンカーなど専用貨物船やドレッジャのような作業船が多くなっていた。いままで造られたことのない船舶であり、構造も艤装も新しい方式を採用して損傷が出たり機能が発揮出来なければ一大事である。
このために構造強度研究課が出来たのであるが、課員のほぼ半数は船体構造、残り半数は鉄構関係の研究要員であった。
試験研究工事は各事業本部(あるいは事業部)で各年度に認許されたものが予算化される。
当然ながら構研との打ち合わせも研究業務も協同で行う。
時により比率は異なるが設計業務、同業務の電算化、試験研究、委員会関連業務を並行して行っていた。




posted by bremen at 10:27| Comment(0) | 想い出
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