
縁あって1966(昭和41)年11月6日に妹の恭子は市内の河本氏と結婚した。
当時は今日のようにホテルなど結婚式場が少なく舟入に結婚センターという物が出来たのでそこで挙式した。結婚式場があって披露宴会場があり、両家親族や来客の控え室があった。
そして私も三井かOSK(大阪商船)の通信長夫人が仲人をしてくれて岩国で開業している耳鼻科の三女と結婚した。同じ式場で12月11日であった。
両親は大変だったであろう。その間に一ヶ月しかなかったのだから・・・。
設計部次長に媒酌をお願いし、課長や係長、船舶工学科の恩師などに披露宴に出席してもらった。
住まいは基町の南鯉城住宅に居たので市役所に言ったら基町16−17のアパートで空いているところを選ばせてくれたので422号に入った。
三菱広島造船設計部では基本設計課に計画設計機能が集中しすぎていたということであろうか1968(昭和43)年11月に船殻設計課に解編されW氏が課長に、船装設計課船殻係長であったI氏が基本係長になった。
広島造船所では1944(昭和19)年以来、戦標船、内航客船、貨物船、巡視船、漁船、油槽船、冷凍船、重量物運搬船など様々な商船や浚渫船のような作業船を建造してきたが、その頃建造していた船舶は鉱石運搬船、撒積貨物船、油槽船など殆ど専用船で、同型船も多かった。
船殻係は写真技法でキープランを拡大し、溶接記号やドレンホールを書き込んで生産性を上げていた。
基本係で担当していた構造強度面では有限要素法(FEM)などを導入して不連続部の応力集中も検討していた。
1969(昭和44)年1月に石川島播磨で建造された撒積運搬船「ぼりばあ丸」が野島崎沖で船首船体を損傷して船長を含む31名が行方不明になる事故が起きた。同船は竣工後5年も経っていなかった。日本中が衝撃を受け波浪外力の究明や船体構造強度の研究などを始めていた。
ところが翌年2月に同じ海域で三菱横浜で建造されて5年未満の鉱石専用船「かりふぉるにあ丸」が沈没した。大変なことになった。虎ノ門にあった船舶技術研究協会に第124研究部会「大型鉱石運搬船の船首部波浪荷重および鉱石圧に関する実船試験」が設けられ昭和45年度から昭和50年度までに数億円の研究が行われることになった。
当時広島造船所で建造中であった第213番船「笠木山丸」が供試船になり、建造中から船首船底外板に幾つも水圧計を取り付けるなど大規模な工事が行われた。
1971(昭和46)年には5航海に乗船計測が行われた。「笠木山丸」は日本鋼管福山製鉄所(当時)に鉄鉱石を運ぶために建造された船で遠くは南米チリ、アフリカ西岸のアンゴラ、近くはオーストラリアから鉱石を満載して運航されていた。
こんな時、船殻設計から広島研究所の構研に移動の内示があった。2年経ったら戻すからと言われたような気がする。その頃は「笠木山丸」が福山に入港するたびに構研のメンバーも設計部に居た私やK君やS君も動員されていたから船体係員とは馴染みだった。
同じ敷地内だから通勤経路を変える必要もなかった。
移動になった1970(昭和45)年10月1日は広島研究所に室課制が布かれた日で構造強度研究課は構造研究室となった。
(これで造船技師から構造強度研究者となった)
上掲の写真は構研で「かりふぉるにあ丸」のトランスリングの圧壊を想定して模型を作って強度試験の準備が出来たときの写真である。